仕事帰りの電車の中で読めるをコンセプトにした、宵のつれづれシリーズ。今回は第42回目、カッコイイ訳語の弊害です。
カッコイイ訳語の弊害
私はこれまで、外向感覚をさすロシア語《волевой сенсорика》を「意志の感覚」として訳してきましたが、Google翻訳大先生より、「随意の感覚」という別訳の可能性を示唆いただきました。
意味としては意志の感覚だろうが随意の感覚だろうが変わりはしないのですが、訳語をあてがうことの難しさはまさにそこにあるだろうと思っています。
たとえば、意味はそんなに変わらない単語でも、単語にまとわりついている印象は全然違うということがあります。
「随意」という単語に比べると、「意志」という単語はカッコイイと感じる人が多くいるのかもしれない。主人公っぽいというか、スーパーマンっぽいというか。
ですがこの変にまとわりついたカッコよさは、外向感覚(意志の感覚)が強いタイプだと受け入れることの妨げにもなりうるなぁとは思っています。
たとえばこういうふうに…です。
SLEなら外向感覚(意志の感覚)が強いタイプだけど、意志の感覚が強いなら受験失敗してないだろうし、意志の感覚が強いならソファーで寝落ちとかしないだろうし、SLEじゃないかも。
意志という言葉のカッコよさから、ちょっとでも失敗したりやらかしたりカッコよくないことをしたら、「私は、外向感覚(意志の感覚)が強いタイプではないからだ」と考えるかもしれません。
そうこうしているうちにその人の中で「外向感覚(意志の感覚)」という概念自体がますます理想化されて、フィクション上にしか存在していない超人レベルにまで到達してしまうこともあるかもしれません。そうなればいよいよ外向感覚型を名乗りづらくなるでしょう。
「意志の感覚」というのが、常にカッコイイものであるとは限りませんということは、たくさん説明していきたいですね(まあでもだからといって「随意の感覚」というお堅い訳語を今後使っていこうとはならないのである)。