決断するということは、準備不足を恐れないことかもしれない。目の前の足場が崩れない証拠をいくら集めて備えたとして、足を一歩前に出さない限りは先には進めない。決断は常に準備不足であり、準備にはいつも決断が欠けている。
真・最高の相性シリーズを楽しみにしている方には悪いが、日記を書かせてほしい。
例えば下の記事――これは1年半前、留年が発覚したときに書いた記事。
この時は自分のことを決断を早まりがちだと捉えて、その理由を「自分の優柔不断を我慢できない」と考えていた。そこでタイトルにもある通り「決めないと決めた」。まずは自分が本当にしたいことは何なのかじっくり考える必要があると結論を出している。第三機能(⑥動員する機能)の内向Tを彷彿とさせる。しかしこの時点では、劣等機能(⑤盲点の機能)の外向Sはむしろ内向Tが成熟するまでセーブすべきだと判断している。
その半年後、選択の基準として「やりたいかどうか」のほかに「できるかどうか」を導入してみたという内容で記事を書いた。
当時は内向T的な選択だと考えていたが、それ以上に「自分をじっくりと観察する」という外向S的視点が強まっているように思う。たとえば似合う口紅は、自分の唇の形や肌の色を知らなければ見つけることはできない。
そしてそのまた半年後、また留年してしまうのではないか…と怯えているだけの記事がこちら。
この翌日は、確か8時間くらい成績表を開くことができずウジウジしていた。決定的瞬間は既に到来しているものなのだから、今成績を見ようがあとで見ようが同じこと……そう頭では理解できていても、踏ん切りがつかなかった。「見るぞ」と決断するのが怖かった。
こんなふうにして、私はいつも「決断」について悩んできた。
きっと私は希望を捨てられないんだと思う。半年前に2留を怯えていた私は「偶然とは希望である」と書いているが、私は「たまたま」を信じたいお人好しバカの一面がある。たまたま失敗しただけ…たまたま気分が良くなかっただけ…たまたま時期が悪かっただけ…。そう思えばとりいそぎ絶望せずに済むからだ。
でもそれ以上にはっきりと気づいている。これが偶然でも何でもないこと、むしろこのままでは「偶然性がふるいにかけられていく」一方だということ。不都合な事実が積み重なればなるだけ「たまたま」を信じることができなってしまうということ。そしてそれだけ絶望は肥大していくということ。時間をやり直せばやり直すだけ、絶望の魔女は強くなった。……あの魔女は、ほむらちゃんの見ていた景色そのものだったのかもしれない。(突然の懐古)
だから、肥大化する絶望を前に、私はいつも準備をしてきた。絶望を断ち切るための準備。例えば、1年半前の私、つまり「決めないと決め」ている私は、準備不足を理由に決断を保留している。「決めないと決めた」だなんて言葉遊びでごまかしてもそれが決断でないことは明らかだろう。
当時の私は何もわかっていない、と思う。決断とは準備の中断に他ならない。決断の準備が完遂することはありえない。もちろん準備をすれば、それだけ踏み出しやすくはなるだろう。それでも、最後踏み出すときには多かれ少なかれ「エイヤッ」と勇気を振り絞らなければならない。決断とはそういうものだ。それに、決断のハードルをちょこちょこ下げている間にも、絶望は大きくなっていくわけで、その準備いつまで続けるの?もうとっくに跳べるくらいにハードルは低くなっているんじゃないの?それなら一体いつ跳ぶの?という話。
決断にはエネルギーを費やすが、決断しなくて済む環境構築にもまたエネルギーが必要だ。そういえばクアドラについてまとめたときに、「決断力があるdecisive/思慮深いjudicious」というソシオニクスの二分法を知ったが、もしかしたらこういうことなのかもしれない。私はベータ・クアドラ、どこまで行っても決断にエネルギーを費やしたい側の人間なのだろう。決められないくせに、決めたがる。